2016年10月22日土曜日

飯塚範士を偲ぶ

飯塚才司先生(享年76歳)がお亡くなりになって
もうすぐ1か月を迎えようとしています。

平成28年9月24日 その日は中学の部活動の指導中
古賀三島剣連理事長からの電話でその訃報を知りました。
その日はいろいろな行事が重なり 悲しみに暮れる間もなく
バタバタとした1日を過ごしました。

9月27日の通夜、28日の葬儀には
たくさんの人たちが式に参列され
その存在の大きさを改めて感じることとなりました。

飯塚範士は昭和16年横浜市に生まれ
幼少のころ静岡県焼津市に移住。
剣道は中学から始め
進学した静岡商業高校では高校総体に出場。
昭和33年夏 国体静岡県予選に優勝した会場で
当時の三島剣連会長の深谷先生より
東レ三島への入社を勧められ
昭和34年東レ三島工場に入社される。

入社された34年の6月、三島工場には
稲穂が一斉に芽を吹く様のごとく 
皆が等しく一緒に伸びて欲しいとの願いを込めた
「斉進館」(せいしんかん)道場が建設される。

三島工場師範の石垣芳之助(元 三島剣連会長)
より指導を受ける

石垣先生は勝敗にこだわらず
常に品位と心の在り方を指導され
小細工せず腹のすわった剣風を目指し、
東レ三島の大将らしさを求められた。

昭和39年第7回全日本実業団剣道大会では
3位に入賞される。
ちなみにこの大会ベスト4は
東レ愛知(優勝)東レ滋賀(2位)
東レ三島、朝日生命研究所(3位)と
剣道を社技とする東レ(東洋レーヨン)の
強さを見せつけた。

昭和44年には第11回関東実業団剣道大会に初優勝。
(第13回大会も優勝)


昭和54年に東レを退社し
実兄の経営する会社に入社。

私が高2の時1学年下に息子の
飯塚健・康の双子が
沼津学園に入学する。
その時 お父さんが有名な剣道家ということを知る。
私が高校生の頃
東レの三島剣連の道場で飯塚先生から
稽古付けていただいた記憶が無いが
これは平塚に単身赴任されてた時期
と重なっていたためである。

平成2年(1990年)49歳で
8段審査に合格され

平成11年(2000年)剣道範士を拝受される
この年 三島のブケ東海で範士祝賀会が
開催される。




この頃 私30歳。
20代半ばよりたびたび稽古を
いただいたり 指導されたるする機会に恵まれる

稽古でも6段を目指す頃のある日
「矢口!高段者を目指すなら
わしと 張った稽古をしろ!」といわれ
今までかかり稽古したことない私が
初めて 範士と張った稽古をする・・・
稽古後 腕は緊張し 力が入ったため
ブルブル震え
足は緊張し正座ができないほどで
範士8段の偉大さを思い知らされることとなる。

私が6段合格の際は
その日にお祝いしていただき
喜んでいただいた。

私は30過ぎに現在の吉川製作所に勤務する。
吉川製作所の社長は
吉川安敏 三島剣連副会長。
公私の私の部分で一番 飯塚範士と近い
吉川社長との関係でさまざまな
所にお付きとして帯同する。

 山梨での8段同期会

大阪の日曜会


香港へも




範士の横には滝川先生が。
滝川先生は「飯塚先生!」
飯塚先生は「貞ちゃん!」と呼び合う間柄ながら
若きときはしのぎを削った間柄

かつて発行されていた静岡県連広報
の創刊号の表紙。
当時の若手実業団の雄と警察の雄の対戦写真。
とはいえ これは撮影用の絵つくりのため
飯塚範士は上段に構えただけ。

遺影を眺める滝川先生の胸に去来するモノは?

さまざまなところに帯同すれば
酒席はもちろん



剣道の話でお怒りの姿もたびたび見られましたが
面白くて ダンディーだったな。
良くモテたらしいし・・・

三島剣連御用達の焼き鳥「あずさ」で飲んだ後
二次会の会場へ移動する際
範士の前を走って横切った猫に
「猫の分際で 無礼者!!」には
大笑いしました。

出来ることなら
倒れる2015年5月の前の
七段審査で合格して
一緒にお酒を飲み
喜んでいただきたかった

まだまだ稽古をつけていただきたかった















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